広島高等裁判所 昭和63年(う)239号 判決
論旨は要するに,原判決は,本件犯行当時における被告人の責任能力につき,主として原審証人Mの証言及び同人作成の鑑定書(以下これらを総称して「M鑑定」という。)に依拠し,被告人は精神分裂病にり患していたために事理弁別能力が著しく低下していたがこれを全く欠くまでには至っていなかったとして,被告人が心神耗弱の状態にあったと認定したが,これについては原審証人Kに対する証人尋問調書及び同人作成の鑑定書(以下これらを総称して「K鑑定」という。)に基づき,被告人は精神分裂病により是非善悪の弁別能力を欠いた状況にあったとして心神喪失を認定すべきであり,この点において,原判決にはその判決に影響を及ぼすべき重大な事実誤認があるというものである。
そこで所論にかんがみ記録を調査して検討するに,原判決挙示の関係各証拠を総合すると,原判決が(本件犯行時における被告人の精神状態について)と題する項において,右「M鑑定」と「K鑑定」のいずれを採用すべきかにつき,他の証拠とも対比しつつ比較検討しながら,詳細に説示するところはもとより,その結論として,被告人の責任能力につき,被告人は本件犯行時精神分裂病にり患し,その程度は不全寛解状態の下位若しくは軽快状態の上位にあり,思考障害,現実検討能力の低下を生じ感情鈍麻が相当進行していたこと,本件犯行態様が衝動的で執拗かつ残虐であること,被告人は原審公判時においても悔悟の情に乏しく傍観者的であることなどの事実を認めつつ,一方において,本件犯行が妄想など精神分裂病に基づく異常体験に直接支配されたものではなく,その病状が末期荒廃状態にまでは至っていないこと,被害者である母親から「仕事をせんにゃあ,また病院に入れるよ。また入るかね。」などと言われたことに対する恐怖心と同女に対する憤りという本件犯行の直接の動機が一応了解可能なものであること,本件犯行前後に格別異常な行動が認められないこと,被告人が本件犯行前後の状況等についておおむねこれを記憶し,取調官等に対して具体的に供述していること等を総合判断して,被告人は,本件犯行時精神分裂病のために心神の障害があり,そのために是非善悪を弁別し自己の行為の規範的意味を理解する能力及びこれに従って行動を制御する能力が著しく減弱した状態にあったけれども,これを全く失っていたものとは認められないとした判断は,当裁判所もこれを正当として肯認するものである。
所論は,「M鑑定」は被告人が薬物療法を受けている状態での鑑定であるから,服薬を止めていた本件犯行時の精神状態とはその鑑定対象が異なるものであり,薬物療法をしていない状態で行われた「K鑑定」の結論の方が科学的,合理的である旨主張するのであるが,関係証拠によると,被告人は昭和61年2月10日にそれまで入院していたY病院を退院した後,1か月も経たないうちから服薬を止めて翌62年4月23日の本件犯行当日に至っているのであるが,この間において特に顕著な病状の悪化は認められず,被告人が,当時働いていたパチンコ店において,自分が精神病院に入院していたことを店の者に知られ,陰でこそこそ言われたり,監視されているように感じたなどと述べている点についても,原判決が指摘しているとおり,これは妄想の前段階である念慮というべき程度のものであること,被告人は本件により逮捕された日の翌日である昭和62年4月24日から医師の投薬を受けたが,翌5月12日の午後以降は服薬を拒否していること,「M鑑定」における被告人の検診は,同5月9日から同月26日までの間に,身体諸検査を含めて5回にわたって行われていること,原判決も指摘するように,投薬治療の効果は妄想等の陽性症状の除去には有効であるが(ただしその効果が現れるまでには相当期間の服薬の継続が必要のようである。),思考障害や感情障害等人格障害の改善にはさほどの有効性が認められないこと,以上の事実が認められ,このような本件犯行前の被告人の病状,本件犯行後の服薬期間の短さ,その薬物効果の限界等からすると,被告人が本件犯行後に投薬治療を受けていたことを理由に「M鑑定」を排斥することは相当でなく,この点に関する原判決の説示も正当である。